死刑反対論(→画像は葵より借用の石田三成斬首の図)

こんな記事がありました。↓
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050219-00000012-yom-pol

世論は死刑賛成に傾いていますが、私は法律かじったものとして反対論を持っています。以下論じてみます。

死刑正当化論ですが、刑法は主に一般予防特別予防の精神があり、その意味で一般予防の精神から死刑は犯罪への抑止効果があるという点、特別予防の精神からは犯罪者がもはや矯正不可能であるからだという点がよく主張される点です。

しかし、この正当化論はどちらも論理的な欠陥を持っています。前者は抑止効果を果たすならば、単に厳罰であれば目的を果たすことができ、必ずしも死刑である必要はないのではないかという点と、後者に関しては矯正不可能であるとどうして人間が判定できるのかという点です。

まず一般予防に関してですが、大谷教授が指摘するように刑法は犯罪予防の精神だけでなく一般国民の正義感情である応報の観念に立脚していると言えるので、この点からすると、「目には目を」という人間としての普通の正義感をも刑法は重視しているといえるから、殺人者に対して死刑を科すということは一見合理的でしょう。しかし、大谷教授も応報の通念から、「犯罪の重さと刑罰の量は原則として均衡していなければならない*1としていますが、あくまで均衡であり「目には目を」ではありません。目には目をであるならば、「指つめ」という傷害罪を犯したヤクザには同じように「指つめ」の刑を科さねばならないことになります。現行刑法は懲役・禁固・罰金・科料のみを規定しているので目には目をでないことは明らかです。となると、刑法の保護する正義感は「軽い罪には軽い刑を」「重い罪には重い刑を」という均衡刑罰思想であると考えられます。

次に特別予防に関してですが、まず現行の刑罰がどういうものでどういう精神に立脚しているかを考えます。刑法に規定される刑罰は軽い順に、科料、拘留、罰金、禁錮、懲役、死刑の6種類であり、死刑は犯罪者を社会から消してしまうという意味でかなり特徴的な刑罰です。刑罰は、古典学派では一般予防・応報刑観、近代学派では特別予防刑があり、視野はそれぞれ前者が一般人に対して、後者は犯罪者に対して向いています。私は一般予防刑としての目的は厳しい刑が下されると公言しておくことで果たされ、後者の点こそが社会の維持にとって最も重要であり、刑法の主の目的なのではないかと考えています。その意味で、特別予防の余地を封じてしまうということは刑法の趣旨に反することになると考えます。

以上まとめると、一般予防の精神は目には目をではなく刑罰均衡の精神にあり、特別予防の精神は刑法の主目的でありこれをあきらめることは刑法の趣旨に反すると言えるので、死刑は現行刑法上、理に適っていないと考えます。

*1:大谷實著「刑法総論 第二版」成分堂平成12年発行 24頁参照