〔雑談〕

こないだ博士号をとったばかりで退職し某大学にいった元同僚Aさんの言葉の中で、「知らん」というのが最近いいなと思う。
大学時代は世の中のありとあらゆる現象をある程度知り、分析できるつもりでいたし、自分の行動も説明がつくものだと思っていた。自分が気に食わない言論には必ずそれなりの論拠があり、自分が大事にしていることにはそれなりの筋目があると考えていた(少なくとも空気のようにそう思っていた)。もちろん、そんなことは幻想にすぎないということにも気づいていて、よくそれとこれとの矛盾を突き合わせて悩んでいたものだ。
そんなところで、Aさんがとても優秀なのに、「知らん」を堂々と連発しているのを見て、う〜んなるほどなと思ったものだ。
いわゆる、情報化社会の中で、インターネット、携帯でありとあらゆる情報ががんがん飛び込んでくる。「あるある」に代表されるように真偽不明の情報が、公共の電波に乗ってさも真実であるがごとくお茶の間に垂れ流されてくる。その他、知りたくもない情報が溢れている。うざい。
だけれども、社会を語るものが、社会で注目されている情報を全く関心を持たないでいいのかといわれれば、そうではないので、これを全部排除するわけにはいかない。で、イライラしてたわけだ。
解決策として、「聞いたことはあるが、細かいことは知らん。よって語らない。」ということを堂々と言うこと。これにより、自分に関心のない事項で妙に深入りしないですむ。精神の健全性も保てる。自分の知っている分野に関してはそれはその範囲で合理性を保ちつつ、それ以外は知らない。

そうそう、他人も自分でさえ、細かいことは知らない。そう、知らなくていいのだ。自分がどんな行動をしたかをイチイチ細かいことまで知っている必要はないし、分析の必要もない。知らない。これが解決策なのだ。