クラナド

坂上智代編をクリアした。なんか、感動した。正直言って、いろいろ考えさせられた。自分のやってきたことは智代に近かったからだと思う。自分は、高みを目指すという発言をするようなそういう「高み」というものを信じている人間を侮蔑している。だけれども、その侮蔑を単なるやっかみにしないために、自分は「高み」と言われている場所へ到達するように努力する。結局、そこで分かったことは物事を分かり易くするために世の中には形式が存在する。大卒だとか司法試験合格だとか、クラナドに戻れば成績優秀だとか生徒会長だとかである。大体、そのイメージは実態と符号することが多い。だけれども、常に例外は存在する。結局個別具体的に付き合わねばその人間を本当に理解することはできない。
主人公は生徒会長という役職のイメージには並々ならぬ嫌悪を示していた。彼女がその職につき、結局彼らは別れを選択することになる。だが、物語は彼女も主人公もよりを戻すことで終わる。こう書くとあっさりしすぎているが、人間が案外そういう形式にしばられているとともに、実質が最後には勝つのだという書き手の思いが表現されていると読める。
実際は、人間は形式によって世の中に判断され、それが非情な世の中の合理的なシステムである。だが、それはあくまで社会を合理化するためのシステムにすぎないはずである。実際の人間関係においては、人と人の付き合いをして、人間味ある人間関係を築きたいものだ。その気持ちはおそらく誰もが持っていると思う。それを物語の形で表現してくれたクラナドの書き手に敬意を表したいと思う。