憲法

アメリカを素材に、主に立憲主義の表れとしての違憲審査が民主的な立法をどうして排除できるのかという話。立法府が定数配分や選挙法という点でいわれるほど民主的でないということ、司法府が大統領の任命によったり国民審査があったりするという意味である程度民主的であるということが指摘される。しかし、相対的に民主的なのは明らかに立法府であるから、この議論はそれほどの説得力を持たない。
ウォーレンコート時代の違憲判決の乱発は時のレーガン大統領を後悔となった。しかし、少なくともこの時代のアメリカが自由という価値を信奉している国であるということを認識させられる。国旗を焼く行為に罰則を付することも違憲となってしまう国であり、差別表現も規制できないのである。多元主義というか、自由な対抗言論に物事を決着させようという態度なのだなと認識した。
それで、違憲判決乱発に対する保守派の対抗議論として、原意主義というものが出てくる。詳しくは阪口正二郎著の「立憲主義と民主主義」にあるから、参照しろということであった。
いずれにしても、簡単に割り切れる問題ではなく、保守二大政党時代に入り、保守王国であるともいえる日本には大きな課題をつきつけるものであると思った。本来の保守が変えるべきところを変えつつ本質的な部分を保守するという理念である以上、リベラルが持つ合理主義の精神は引き続き貴重なものであると考えた。