オタク論

これまでいろいろなオタク論が出回っていて、それぞれ相応的を得ているようだが、どうもオタクにとっては少々自虐的すぎるのではないかと思うので、前向きな切り口でオタクとは何かを簡潔に書いてみる。

最近、オタクの友人とよく集まり話す機会が多い。それぞれ、一定の大学を出て社会的には認められている人間になっていて、普通に生きているわけなのだが、彼らの共通的事項は「○○というラジオ番組」「○×というアニメ作品」「××というゲーム」に感動して、それからなったと言っている点だ。

それはマルチメディアカウントダウンだったり、エヴァだったり、ときメモだったり、KANONだったりするわけなのだが、そうしたコンテンツが非常に人をひきつける魅力を持っていたということはどうやら事実のようだ。
それでいて、オタクの地位は近年多少上昇の気配を見せるものの、未だに低いままだ。どうしてなのか。

単純にコンテンツとして新しかったゲームやアニメや漫画というのは新しい挑戦をしやすい反面大失敗も起こしやすいため、手法が確立されて一定水準を見込める映画・POPミュージック・小説などと比べ、玉石混交状態がひどかったということではないかと私は思う。つまりは、石コンテンツが溢れている状況だったのである。例えば、クソゲーやクソアニメなどの存在などがそうである。

しかし、一度玉を見せられたオタクは、一心腐乱にクソコンテンツをあさりながら、玉を見つけ出そうとしていたのである。しかし、外からみると何のためにという部分は見えず、クソコンテンツまみれになっている姿しか見えない。これが、オタクが気持ち悪いといわれる最大の原因なのではないか。

実際に、クソコンテンツを玉だといって騒ぐ輩も出て、社会から白眼視されるレッテルを貼られることとなったのである。

逆に言えば、近年のオタクの地位の向上は、アニメやゲームの分野は年月を経て成熟化を見せており、玉といえるものがかなり増えてきたことが要因ではないかと思う。ただ、その玉は量産化された人工的な感じのする玉であり、90年代のように手作り・模索したなかの玉ではない。そこに感じる感動は年齢のせいもあるが、少ないような気がする。

こういう状況下で、日本が真のコンテンツ大国になるには、引き続きクソになるリスクを踏まえた挑戦性とそれを支える真のオタクが必要なのではないか。

いずれ、後世の歴史家は「こういう真のオタク達こそが、世界最先端のコンテンツ国家日本の歴史を動かした」と記述することとなるかもしれない。そう、日本発ルネッサンス、これがオタク運動の本筋なのである。