〔雑談・政見〕いづこれ!だが、

最近いろいろみんなの話を聞きつつ、まあいづれにしても表現の自由は大切なんだよなとか言ってまとめてしまうのが癖になりつつあるというところからだ。

  • 戦争の正邪や意義の議論をしていても、

「まあ、戦争っていろいろな認識あるが、いづれにしても、歴史を見る上で欠かせないし、今の生活や秩序にも深くかかわっているから、知っておく必要はあるよね」とか友人に言ってしまうわけです。

  • 他にも、いろいろ不快な発言をされた場合に、「それがどうかした?」って相手の意図を分かっていながら、あしらうのが最近好きです。聞こえないふりもいいんですがね。あと、「世の中ままならない」ということと、「人間案外適当だ」という認識が好きだ。

社会科学を自然科学のようにきれいに論理化しようという輩がいるが、人間は情で動くもの、そして文化で動くものなのだ。これを前提に議論しないと駄目だ。とにかく、慣習化してしまうと、変なことも普通になる。逆に初めてのことはどんなにいいことでも異端視される。これは古今東西同じだ。だから、新しいことをしようとする人間は常に慣習に謙虚でなければうまくいかない。理に適って、過去その慣習がなぜ慣習となりえたかを説明する。その上で、今その慣習は前提条件の変化によって非合理であると説明する。さらに対案として、メリット盛りだくさん新しい案を提示し、実践してみせる。このしっかりしたプロセスがなければ改革というのはおおよそ成功しないものだ。

過去の慣習を憎むか、無批判に礼賛するかのどっちかだ。本当は、好き嫌いでなく、家族の機能、役割分担にどんな合理性があったのか、そして現在何が変わったのかを実質的に説明する必要がある。例えば、いわゆる旧三種の神器により家事労働が省力化されたとか、産業構造の変化によって体力に劣る女性でも働ける職場が増えたとかそういうことだ。だけど、一方で子供を生むことができるのは古今東西女性だけで、変わっていない。しかも、狩猟時代の名残である生物的に刻み込まれた癖は男女とも明確な違いがあり、現代においても残っている。人類の歴史の中でこの時代が断然長いのだから当たり前だ。さらに、家族機能の重要性も変わっていない。じゃあ、今の状況でどうすればいいの?という問いがくる。だが、これだけ職業の性質が多様化した中で状況は個々違うし、一つのモデルケースを押し付けること自体が既に破綻している。つまり、答えは人それぞれの状況によるということ。ただ、いづれにしても、家族はいろんな意味で大事だということは言える。

  • こんな感じだ。

ごちゃごちゃ細かいこと議論していると、木を見て森を見ずになるので、いづれにしても、お勧めである(笑)