濃尾システム 磯田道史 文藝春秋2004年11月号

今にかなり残滓を残す江戸システムを構築したのが、織田信長豊臣秀吉徳川家康といういずれも愛知県出身の武将であることから、濃尾システムとは何かを検証した文である。全体として結論は、人間は永遠なるものを求めるものであるが、日本人はそれを家の永続性に見出したというものである。今それが崩れてきており、それが精神的拠り所をなくさしめる原因となっているという示唆もあると思われる。例によって、印象に残ったいくつかの内容を抜粋しておこう。

  1. 「人間はマンタリテ、いわゆる無意識下の意識にかなり支配されている。」
  2. 「中世は私の乱立社会であったのに対し、近世は織田家兵農分離に代表されるようにいつも一緒だ主従制であるとしている。その要因として、粗放的な農業から家族農業体制への変化と火縄銃の限界性から密集突撃軍団こそが当時の戦闘の勝利ポイントであった。」
  3. 濃尾平野は京に近く先進的であるのと同時に、寺社や公家等の古い権威の影響も弱く、新しい潮流が生まれるには絶好の地域であった。」
  4. 「官界は武家社会の影響を、政界は農民社会をそれぞれ受け継いでいる。官僚は安月給でも安定と名誉心を終身雇用によって保障されている点が、武家が低俸禄で主家のために尽くす点と符合するし、政界で自らの地盤を票田といい、派閥をムラといったりするところが農民社会と符号する。実際に、明治維新において名主層が政界に進出したこともこれを裏付けている。」

以上であるが、少々脈絡のない引用になってしまった感はある。無意識下の意識に関しては、私が傾倒するユング心理学において特に強調されていることであり、この論文での引用に興味が惹かれた。ただ、疑問は集団密集戦法と家族農業の必要が今の社会秩序の原因となったという分析は分かったが、後半筆者が言う現代に合わなくなったというのはどういうことなのだろうか。

  • 現代においても、集団行動において、一つの目的を達成するためには組織化し、滅私奉公的な大将への忠誠心がなければ効率的に業績を上げることは難しいと思われる。その意味で未だにいつも一緒だ主従制は普遍性を有するとも言えよう。しかし、私が察するに向かうべき一つの目的が現代において不明確になりつつあるという点があるのだと思う。つまり、かつてあった目標である豊かな社会であるが、現在の日本人は衣食住が満ち足りて、週3〜4日働くだけのフリーターでも一人で暮らすのであれば十分に暮らせるだけの賃金を得ることができることからしてほぼ達成できたと考えられる。
  • では、日本社会はどこに向かうのだろうか。再三指摘するように、今現在日本人が求めてやまないのは心の拠り所である。ここで、旧来の家はさすがに難しい、であるならば国家の永遠性、民族の永遠性に求めてはどうかとなる。この点を認識し、その需要を巧妙についているのが次の首相候補呼び声高い、安倍晋三氏その人ではないかと思う。精神的空白の満たし方であるが、各種宗教や各種結社の並存共存を考える方法が一方であり、リベラリストはこちらを支持するであろうが、私は国家統一性を維持する必要からある程度民族的精神も大事なのではないかと考えている。米国の多元主義ではないが、国家に所属し、野球チームという結社にも所属し、職業社会に所属し、といった並存形態はありうるのであり、いずれにしても突出しなければ良いのではないかという考えを持っている。